設立当時の危機

Last update: 2000/07/01
孫正義は、ソフトバンクの設立後3ヶ月目ほどで、最初の危機を迎える。家電の見本市であるコンシュマー・エレクトロニクス・ショーが大阪で開催され、ここで出入り口ちかくの一番大きなブースを確保しようとしたのである。そして、ソフトハウス、ソフトの開発会社に電話をかけまくり、「場所と経費はすべてこちらで負担するから、うつのブースで出展し、販売を任せてくれないか?」と申し出た。孫の粘り強いセールストークの結果、10社余りがこれに応じた。

ソニーや、松下を上回る人々が来場し、ソフトバンクのブースは連日黒山の人だかりだった。しかし、このエレクトロニクスショーの後、待てど暮らせど全く注文がなかった。理由は、来場した人がソフトバンク抜きで直接ソフト開発会社と取引をすることになったからである。孫はこれで800万円をどぶに捨てたように思われた。

しかし、エレクトロニクス・ショーの数週間後、大阪の上新電機から電話がかかってくる。上新電機はだれもが知っている、電気卸売店であるが、孫はしんじられないことに、当時上新電機を知らないでいた。「パソコン専門の大きなショップをつくりたいのだが、ソフトウエアの流通については詳しくないので、相談にのってもらえないか?」という電話であった。孫は上新電機については正直しらないし、今は「忙しいからいけない」とこたえている。実際忙しいのであるが、それいじょうに会社には金がなかった。すると、相手からは「松下電器、シャープなら貴方もご存知でしょう。松下かシャープの方に当社のことを聞いてください。」といって電話がきれた。シャープに問い合わせてみると、上新電機のことを教えてくれ、「今すぐ大阪へ行け」と言われた。しかし、上新電機のほうからふたたび電話があり、「社長がたまたま、明日東京に用があるから、その後会ってもらえないか?」と申し出てきた。

翌日今は亡き上新電機社長の浄仏博光が訪ねてきた。実際は孫に会うためにわざわざ来たという。上新電機はすでに、パソコン専門の大型店を開店していたが、ソフトの品揃えに苦労しており、エレクトロニクスショーで、ソフトバンクの名前を聞き、孫を訪ねてきたという次第だという。孫は、浄仏社長の話をきくと、いきなり、自分にすべてのソフトの販売を任せてもらえないかと申し出た。浄仏社長は初対面でこのような独占的な契約の提案をされたので驚いたのであるが、孫の情熱と真摯な態度に圧倒され、この申し出をその場で受け入れた。

孫は上新電機との独占契約を武器にして、ソフトハウスとの販売代理についての交渉を次々と成功させていった。やがて、上新電機はパソコン専門店舗を「J&P」として、全国展開する戦略をうちだした。

やがて、当時ビジネスソフトで最も有名であったハドソンの説得に孫はおもむく。ハドソンを落とせば、日本中のソフトハウスはみな右へならえでソフトバンクとの契約をすると考えた。孫は他のソフトハウスと同様に独占契約を結び、すべてのソフトをソフトバンクを通して売ることを迫った。しかし、当時社長で工藤雄司と副社長の工藤浩はこれを拒絶した。しかし、孫は、食い下がる。結局工藤兄弟が折れ、5000万円の保証金を用意できたら、独占契約に応じると答えた。会社にはもちろん当時、そのような金はなかったが孫はなにがなんでもそれだけの金をつくるつもりでいた。

この段階で孫と折半出資によってソフトバンクを設立した経営総合研究所が孫への不信感をあらわにしてきた。経営総合研究所は弁護士をたてて、株価を額面の3倍で買うなら売ると迫ってきた。孫はそのことをハドソンの工藤兄弟に相談すると、工藤社長は「それなら株をかいとればいい」と話した。設立後3ヶ月足らずなのに、額面の3倍とは話にならないのであるが、孫はこれを買い取る決断をした。

結局ハドソンと、株式の買取りで合計6500万円が必要になったが、孫にはそのような金は勿論ない。そこでソフトバンクの取引銀行である第一勧業銀行の麹町支店の御器谷正之支店長を訪ねた。「プライムレート(最低の金利、もしくは金利なし)で一億円貸して欲しい」と申し出た。孫は一時間かけて、自分がアメリカで音声翻訳機を開発したこと、それをシャープへうりこんだこと。ソフトバンクを設立し、コンピュータエレクトロニクスショウに800万円で出展したことなどをすべて正直に話した。

御器谷支店長は、孫の情熱、真摯さなどに心を打たれてて「前向きに考えます。」と答えた。支店長が自分の一存で融資できる金額は一千万円までであった。本店の審査部門に案件を申請すると同時に、大阪支店にはシャープの佐々木専務との関係、難波支店には上新電機の浄仏社長との関係を調査した。そして孫の話したことに嘘がないと確信した。御器谷は自分の首と退職金を担保に融資をしたと後に語っている。これによってハドソンとの独占契約締結し、ソフトバンクも完全自社化する。

日本一になるからには休みを取らずにがむしゃらに働く。この孫ならではのやり方が災いして創業3年目に肝炎になる。5年の命と言われる。病気療養のため、会長に昇格し、入院したり退院したりの生活を5年ぐらいする。この時、電話やファックス、コンピューターを病室に持ち込み、そこから会社に指令をする。

しかし、やはり会社の創業期にありがちなことである社員の流出にみまわれる。社長に大森康彦というセコムの副社長をしていた人物を招き、病気である孫の代わりに会社の経営を頼む。孫自身は会長職につき、病気ということを表にださないようにするため、アメリカへの長期出張にでていると会社では説明した。

大森はそれまでの孫の経営方針を転換しようとする。大森はそれでも大学のサークルの延長であった経営方針をしっかりと組織された企業にかえようとした。それはそれで一理あるようであったのでるが、ここに孫との確執が生まれたようである。大森のもと、創業直後からソフトバンクに加わった従業員が、大森のもとの経営を嫌に思い、多く去ったという。孫の療養後、大森はソフトバンクを去る。

また、病気の時に孫はソフトバンクの事業とはべつに個人の名のもと「TAG」という雑誌を出版したり、データベースシステム事業に進出するなどするがこれらがことごとく失敗する。これによって個人で10億円もの借金ができる。これを返済するために孫はNCC・BOXという発明をする。85年に4月1日にNTTは民営化された。また、第二電電、ニッポンテレコムなどが相次いで設立された。しかし、割安な第二電電や日本テレコムを使う場合、NTTの電話とくらべて4桁ほど余分にダイヤルしなければならなかった。NCC・BOXとはアダプターのようなものでそれを電話機に設置すると、自動的に第二電電やニッポンテレコムに接続し、割安になるという機器であった。孫はこれによってこの10億円を返済するのである。

これ以降孫は様々な山や谷を経験するものの、発展を続け95年のM&Aにいたる。

現在は、新生日債銀の運営や、低迷の続くナスダックジャパンの運営など様々な困難が孫にのしかかっている。しかし、ソフトバンク設立当時の孫の神懸かり的な経営手腕をみれば、今回の困難、危機もきっと乗り越えられると予想できる。自社株式総額の計算では、2000年の春先に世界一の金持ちといわれ続けたビル・ゲイツを一時期抜いた。また、一部のマスコミにひどいバッシングを受けている。しかし、日本の構造改革を民間レベルでひっぱっているのは彼である。これからも応援していきたい。


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